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中藤毅彦ナカフジ・タケヒコ

世界のストリートを見たその眼が
東京・渋谷を撮ったら。

人が街をつくるのか、街が人をつくるのか。 江戸時代より「スクラップ&ビルド」を繰り返してきた日本の首都・東京は、2020年の「東京オリンピック」に向け、まさに一新されようとしている。そして、最も新陳代謝が“激しい”街の一つ、「渋谷」は、大きな再開発をいくつも抱え、「スクラップ&ビルド&ビルド&ビルド」・・・永遠に終わらない(と思わせる)工事を回避しながら、多くの人々が世界で最も有名な交差点を行き来している。

この「渋谷」を含む、東京の各所を被写体として撮り続けている写真家・中藤毅彦氏は、「渋谷は、常にその時代の『若者』を引き付ける磁場があると思います。1990年代にセンター街にいたチーマーや2000年代初めのガングロギャルは、もういません。親になってもここに来る、という類の街ではなく、日本中から若者がやってきて“その時代”を過ごす【劇場】のような場所。『若者』という言葉を象徴するような街ですね」と語る。

東京文京区、後楽園の付近で生まれ育った中藤氏。「今も昭和の風情が残っているような、いわゆる東京の下町です」。父親のカメラを借り、遠足の写真を撮るなどした小学生のころから写真への興味が始まり、高校時代にライブハウスに通い詰めてミュージシャンと観客を撮影し始めるようになってから、のめり込んだ。「ライブハウスという小さな箱の中は、まさに非日常の空間。ミュージシャンと近い距離にあり、交流して撮影したことが、興味を増すきっかけになりました」。大学入学後、写真サークルに所属するが当時から作家志向だった中藤氏は「サークルの域を出ない」と中退。東京ビジュアルアーツ写真学科を卒業した。キャリアのスタートは、「東京」だった。1995年の個展「NIGHT CRAWLER - 虚構の都市への彷徨」、夜の東京を切り取ったシリーズによりデビューを飾る。「東京という被写体には終わりがありません。一人の人間の“地元”と呼ぶには、あまりにも大きく多面的な大都市です」。

何もなかった場所に、突如現れる巨大なショッピングセンター。規格住宅が整然と並ぶ、「郊外」というコンセプトが立ち上がった90年代末。「さり気ない」「何気ない」をキーワードにした「日常写真」がほぼ同時期に登場し、レンズは「ハレ」の情景から「ケ」の平凡な時間にフォーカスし始めた。「被写体」を必要とする写真の特性上、なにか「在る」ことを前提としていた撮影行動が、「無い」ことに焦点を当てた。 東京という場の「ハレ」と「ケ」を、気負いなく行き来することが身に沁みついていた中藤氏の興味は、この時期、海外の都市に向いていた。ルーマニアの首都・ブカレストでは、2万匹の野犬と数千から1万と推測されるストリートチルドレンを目撃し、ドイツの首都・ベルリンでは、東西を分けたベルリンの壁の跡をたどりながらその両極性に魅了され、キューバの首都・ハバナでは、資本主義がもたらす“物質社会”とは根底から異なる「社会主義特有のムード」を、ストリートの風景から見出した。

「ダイナミズムのような、なにかを感じる街に惹きつけられる」という中藤氏。写真は被写体という「像」を奪い、写真になることによってそれを奪い続けている。だが、中藤氏の写真は、そのダイナミズムが陰りを見せる瞬間をとらえ、茫洋と、風景を目の前にして「どこからつかもうか」と、傍観者であり続けている。奪わないのだ。

1996年の埼京線の乗り入れにより、かつては裕福な都会の若者文化の発祥の地だった渋谷は、近郊や地方出身者の巡礼のための「ハレ」の場になり、「ギャルサー(ギャルサークル)」などが象徴するように、「カタルシス」を体験する場になった。

だが2000年代に入り、日本のポップカルチャーは、ストリートではなくインターネットから登場した。2020年を目前にした渋谷は、再び「ポップカルチャー」が生まれる街として返り咲くことができるだろうか。「渋谷は、いまや“電脳空間”になりました。高度な情報化により人の動きは変わりましたが、まだインスピレーションを与える場所だと思います」。中藤氏は、徹底した傍観者として渋谷を、写真を撮り続けるのだろう。

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