私たちの日々を輝かせるのは、小さな勲章の連なり。
縄文から現代まで、日本人の美意識を象徴し続ける宝石「真珠」。
ウニやナマコ、カニ、フグの類いを口にする際、頬張った瞬間、毎回ひとつの考えが頭をよぎる。「この生物が食べられると、だれが発見したのか?」。夏目漱石の「吾輩は猫である」にも「始めて海鼠(ナマコ)を食い出せる人はその胆力において敬すべく、始めて河豚(フグ)を喫せる漢(おとこ)はその勇気において重んずべし」とある。日本人の雑食遍歴は、縄文時代までさかのぼる。貝塚から出土した自然遺物の中に、ウニの殻やカニの残骸が発見されているのだ。
では、日本人の美意識をさかのぼるなら、同じ縄文時代の貝塚にその鍵がある。「真珠」である。約5,500年前の貝塚から発見された真珠の、日本人とのかかわりは長く、そして深い。「魏志倭人伝」に、卑弥呼の後継者・壱与が白珠(真珠)5,000個を中国に献上したと記されていることからはじまり、「万葉集」「古事記」「日本書紀」・・・と、枚挙にいとまがない。当時からすでに日本の主要輸出品であり、宝飾品であり、神事にも使われた宝物(ほうもつ)であった。
ダイヤモンドやサファイアのように「磨かなければ、輝かない」鉱物とは異なり、真珠は「すでに」輝きを放ち、そこに存在した。この美しい真珠を、貝の中から一番最初に見つけたのは、いったい誰なのだろうか?
真珠に「民主主義」を獲得させた、日本の養殖産業。
宝石の中で唯一生命体から生まれてくるのが、真珠である。およそ10万種という貝類の中でも、真珠をつくることのできる種類は、ごくわずかだ。アコヤ貝、白蝶貝、黒蝶貝、池蝶貝など、「母貝」の中で数年かけて育てられる「生体鉱物」。
世界最古の宝石と呼ばれ、日本の養殖真珠が登場する20世紀初頭まで、天然の真珠は男たちが命がけで潜水し、採取していた。自然の神秘を感じさせる美しい輝きと希少価値により、権威の象徴としても長くもてはやされた真珠は、日本の養殖技術により世界中の女性たちの襟元を、指先を、飾るようになった。
年齢に関係なく似合い、慶弔などフォーマルの場にもふさわしいとされる真珠。その「考えなくていい」利便性から「日本人が最も多く所有するジュエリー」と推測される真珠であるが、「箪笥の肥やし」になっている場合も多い。貝の中から偶然見つけられた真珠の美しさを「再発見」しようと提案するジュエラーがある。養殖真珠のふるさと、三重県伊勢志摩の「ヤシマ真珠」だ。
真珠と顧客のストーリーを紡ぐ「ヤシマ真珠」。
戦後間もない時代から真珠養殖発祥の地・英虞湾に養殖場を構え、40余年にわたり“パールジュエラー”としてキャリアを積んできた「ヤシマ真珠」。ブライダルジュエリーのオーダー製作や、世代を超え受け継がれるジュエリーのリデザインを行っている。顧客のストーリーに耳を傾け、ジュエリーデザインに落とし込むオリジナルワークをメインにしているアトリエが、カジュアルなパールジュエリーをデザインした。
「パールは身に付けてこそ輝く」との想いから、“普段使いのパールジュエリー”を模索した、デザイナーの山本真木氏。「人は古代から真珠に魅せられ、長い長い歴史を共に歩んできました。特に女性は、昔から『自分を美しく見せてくれるモノ』として愛用してきた宝石。現代の女性もパールジュエリーを纏って、きれいに見せられることを伝えたかった」と語る。
育むための月日と職人の想いがつくる、繊細な煌めき。
真珠=冠婚葬祭。晴れ着だろうが喪服だろうが「とりあえず真珠」で、品よくまとめてくれる真珠の難点といえば、その取り扱いの手間だろう。
真珠は、生きている貝から生まれた”オーガニックな”ジュエリー。酸や熱、水分にも繊細に反応し、変色など劣化を招く。また表面に傷がつきやすいため、他のジュエリーと触れ合わないよう、別のボックスに入れるなどの措置を施さなければいけない。この透明な輝きを永く保つためには、こまめに拭く、真珠だけの保管場所をつくるなど、ある程度のケアを必要とする。・・・真珠は、いまだ生きているように存在し、まるで生きている私たちと同じような扱いを求めるのだ。
「真珠がアクセサリーとなって女性を飾るまでには、長い時間とたいへんな労力を必要とします。真珠をつくる母貝を育て、核を埋め込み、養生し、真珠の育成を待って、貝を開け取り出します。その間、何人もの職人が携わり想いを込めて作業しています。真珠を眠らせてしまうのは、いろいろな想いも捨てることになってしまう」と山本氏は言う。
真珠の気品を"普段使い"に落とし込んだデザインワーク。
「真珠は、他の宝石と組み合わせても主張し過ぎることがなく、むしろつける人の個性を引き立てます」という山本氏。真珠を採用したタトゥーアクセサリーシリーズは、チョーカーから始まった。「安室奈美恵さんがつけて大流行したタトゥチョーカー。今もまた流行っているこのデザインは、カジュアルに付けられるのはもちろんですが、ポイントが上にくるので背が高く見え、首にフィットして顔の近くにあることから、”レフ板効果”によって明るくきれいに見えるのです」。肌に直接触れるチョーカーでも気軽につけられるよう、耐久性のある淡水真珠を選んだ。
つけている人を、そして真珠を引き立てるため「シンプル、でも上品に見える」デザインを心がけた。ワイヤーによる模様は、日本の伝統文様・七宝文様を彷彿とさせつつも、真珠が並ぶことで、白く輝く惑星の軌道のイメージを喚起させる。
ときに「誰にでも似合う」デザインは、退屈をともなう危険性を孕んでいるが、山本氏が指標としたのは、「白いシャツかTシャツに似合うこと」だった。「普段着」の中に自然に溶け込み、かつ、毎日着用したいと思わせるような「装う」の欲求を満たすデザイン。アクセサリーとしての使いやすさを基本に、金具のないタトゥーデザインをチョイスし、「日本人のきめ細かな肌質に合っている」控えめな真珠の輝きを尊重した。
戦後、荒廃した日本に光をもたらした養殖真珠産業。
1893年、御木本幸吉が貝殻内面に付着した半円真珠の養殖に成功した。続いて御木本の婿である西川藤吉が1907年に真円真珠の養殖に関する特許を出願し、日本の真珠養殖が本格的に始まる。産業として戦後の日本を支え、世界に名を轟かせた「オリエンタルパール」は、アコヤ貝と繊細にうつろう日本の四季がつくり出した、「東洋の神秘」だった。
真珠の養殖は、母貝をメスで切開し、「核」という異物、そして「核」に真珠層を巻きつけるための「外套膜の切片」を体内に挿入する、「オペ」を行う。母貝が身体を傷つけながらも、光り輝く真珠を生む様相は、まさに” 聖母神話”的なイメージを植え付ける。が、こう考えてみよう。傷つけられ埋め込まれた異物を、美しき真珠に変換してしまう、しなやかな強さ。光り輝くのは、「子」のような存在ではなく、「自分自身」である、と。
傷を受け入れたら、私たちは、もっと輝く。
“元祖肉食系女子”とよばれ、大正・昭和・平成にわたり活躍した小説家、随筆家、宇野千代。その著書は、平成の終わりも近づいた現在にあっても、女性たちをエンパワーし続ける。作家、編集者、着物デザイナー、実業家。多様な才能をいかんなく発揮し、また、尾崎士郎、梶井基次郎、東郷青児、北原武夫など、当代随一の” 才能たち”との数々の恋愛遍歴でも知られる彼女のエッセイ「一番良い着物を着て」にこんな一節がある。
(25年間連れ添った夫との離婚を作品にした小説「刺す」の上梓により、読者が身の上相談を持ちかけてくる)「夫が恋人のところへ行って帰ってこないのですけれど」という。私の答えはいつも同じである。「決して追いかけてはいけません。愛したことで、あなたは得をしたのです。さァ、一番良い着物を着て、表へお出でなさい。まず美容院に行って、きれいに髪を結ってごらんなさい」
そして、こう締めくくるのだ。「追いかけないのが、恋愛の武士道である」。
自由奔放、波瀾万丈。恋愛と仕事に生きた宇野千代は、生涯にわたり失恋し続けた。が、一切のあとくされなく、前に進み続けた。「行動することが生きることである」という著書を持つ彼女らしい思想だ。幾多の別れのたびに傷つき、作品に昇華する。「転んでもただでは起きない」といえばそれまでだが。
「失敗しない」が行動原則の、現代に生きる女性たち。失敗を回避し、「正解」を求める代償として、生涯を貫く「自己肯定感」を喪失してはいないだろうか。貝の中で「すでに」美しく輝いていた、真珠。傷を受け入れながらも、体内から生み出すこの宝石は、失敗して傷ついても、「すでに」輝いているものをそれぞれが持っていると、私たちに教えてくれる。どんなファッションも受け入れる寛容さと気品を、「タトゥパールブレスレット」から授かろう。