変わるもの、変われないもの、変わらないもの。
家業を、産業を、ものづくりを受け継いだ鍛金工芸。
「いいね!」が、いいのか。
SNSが、私たちの日常に大きな影響を与えていることは、すでに各方面で語られているが、「ものづくり」においても、そのインパクトは計り知れないだろう。顧客たちのモノを選ぶ際の選択肢に、「承認欲求」が加わった。それに従うように“インスタ映え”がデザイン要素に加味され、「いいね!」の数が、商品の “いわゆる”評価に直結する。正方形の画像に並べられた、グッドルッキングなプロダクトたち。たとえそれらが、100円ショップで売られていたとしても、そのコストパフォーマンスに「いいね!」。たとえ画像の“向こう側”で、無機能ぶりを発揮していても「いいね!」。いったい、なにが「いいね!」なのだろうか。
その高い耐久性から、顧客の一生涯にひとつ、ふたつ程度の販売数ながらも、昔ながらの「口コミ」で裾野を広げ、姿かたちの美しさと使い勝手の良さにより、数十年にわたって絶大な信頼を集めるプロダクトがある。東京・荒川の金属工房「長澤製作所」の銅製急須である。
伝統「技術」は、世襲できるのか。
一枚の金属板を槌で打ち、急須や湯沸しなど主に茶器を形づくる「鍛金」。「長澤製作所」は、初代・長澤金次郎氏が創業した鍛金工房だ。いや、「工場(こうば)」といった方が、その下町の雰囲気、作業場の空気感が伝わるだろう。創業者は「いわゆる“天才肌”。いい仕事さえすればいいという、職人の見本のような人でした」。この初代と、二代目・武久氏は、荒川区無形文化財保持者に認定された下町職人の“名家”である。「私は一度ほかの職業を経験していますから、外から見て家業の魅力に改めて気づきました」と語るのは、当代・三代目の利久氏。祖父・父から受け継いだ鍛金を続け、三十年になる。
なぜ、茶器には銅がふさわしいのか。
熱伝導率の高さから、鍋やケトル、フライパンなど銅製の調理道具を愛用するプロフェッショナルも多い。同じ理由で銅製の急須が優れていることは、言うまでもないかもしれない。湯の熱が全体に素早くむらなく行き渡るため、茶葉が良く蒸れ、茶の香りを引き立てる。また、水に溶けだしたわずかな銅イオンがお茶をまろやかにするという。この微量金属作用によって優れた殺菌効果を発揮する衛生面も、銅製急須を評価していい点だろう。
銅は実用化された歴史も古く、紀元前のエジプト古墳から出土された記録もある。私たちと馴染みの深い理由は、他の金属に比べて加工しやすいこと。破断せずに柔軟に変形するため、私たち人間は「鍛金」という技術を編み出し、その特性を道具に有効活用しているのだ。
なぜ、槌目をつけるのか。
壁一面には所狭しと道具が並び、まさに「町工場」の風情を演出するように、重量級の穿孔器や油圧成型機が鎮座する作業場。決して広いとはいえないこの空間が、利久氏の仕事場だ。カン、カーンと銅板を打ち始めると、その音は空間の広さを計測するかのごとく散っていく。耳に障るほど大きくもなく、かといって何かを奏でているわけでもないが、そのリズムが心地よく、また緊張感を宿している。これが、プロフェッショナルの“加減”というものなのだろう。
鍛金の主な仕事は、槌で打ち、形をつくることである。台に「当て金」とよばれる道具を固定し、金属板をのせて、金槌や木槌で打って「打ち出し模様」を入れ、形をつくりあげる。金属を叩き、「加工硬化」することによって強度を高めると同時に、表面積を広げて熱効率を上げる働きもあるという。加工硬化した金属を約600℃の大きなガスバーナーで「焼き鈍し(やきなまし)」(加熱して)やわらかくし、また槌で叩いて成形する。利久氏が話しながら、なにげなく打ちつけているように見えるこの「一打」から、急須のデザインが緻密に構成されていく。それはまるで城郭の石垣が隙間なく積み上げられて、強固な礎となり、また城の美しさの一翼を担うように、槌目が入れられていく。
伝統技術は、どうやって生き残るのか。
三代目・利久氏のもとには、50年60年使い込んだ急須の修理依頼も舞い込むことがあるという。初代の作である。「祖父の信用が、“今もまだある”わけです」。一つ購入すれば、一生使うことができる名品を、頻繁に買い求める顧客はさすがにいない。が、その信用から婚礼の引き出物など、思いがけない大口注文を受けることも少なくないそうだ。
初代が道具から開発したという急須の注ぎ口は、変わらない「長澤製作所」のトレードマークだ。湯切れの良さはもちろんのこと、その有機的なフォルムは造形としての美しさすら湛えている。急須は、初代から扱っている定番商品ではあるが、利久氏の作もまた「とにかく美しい」「芸術作品のよう」と形容される姿かたち、色合い、輝きを有している。が、「売れなければ意味がない」と利久氏は言う。
つくり手は、作家なのか、職人なのか。
「かつて、祖父の代では商品を『つくりさえすればいい』『問屋に卸して終わり』というのが職人のスタンスでした。でも今は違います」。こうきっぱりと語る利久氏。「商品が使われる、そのためにつくり売っています。鍛金は伝統技術ではありますが、産業として成立させなくてはいけません。仕事は、続けてこそ意味があると思っています」。
「いわゆる作品」を制作する「作家」とは、一線を画す職人としてのスタンス。「腕が認められれば、ひとつ何十万円という“作品然”とした金額で売る“作家さん”もいます。私の祖父もそんな職人でした。私は使ってくださるお客さんの声を聞いて仕事をしたいと思っています」。現在では「東京手仕事」など、つくり手と顧客のあいだに入り、販売のディレクションも手掛けるコーディネーターの存在も大きいという。
「以前は客先が見えていませんでした。百貨店の催事などに参加して、お客さんの声を聞いていると、『いいものを長く使いたい』という若い方が増えていることもわかります。展覧会のようなところに陳列されるよりも、手に取ってよろこんでもらうのが私の一番のよろこびです」。利久氏の考えは、時代に最適化したものづくりを続けていくこと。「伝統とは変革の積み重ねである」各方面で語られるこの言葉。伝統の重圧を全身に受けた者だけが発することのできるフレーズだろう。
《かたち》をつくるのか、《色》を出すのか。
利久氏作の特徴の一つとして、まるで輝きを放つ被膜を纏ったような、繊細な色合いがある。初代・二代目とも異なるそれは、利久氏が化成処理により開発した色だ。「どの職人もやることですが、薬剤の配合は人それぞれ。私にも企業秘密のレシピがあります」。
ここに至る前の工程である金属板の「磨き」、切り出す「丸切り」、動力で絞る(成形する)際に使う木製の「しぼり型」。それぞれに「下職人」と呼ばれる、基礎的な加工を施す職人がいる。ここ荒川もご多分に漏れず、この下仕事に従事する職人の担い手がわずかになっている。「鍛金はあくまで《形をつくる》のがメイン。でも職人それぞれに自分の《色》というものがあります。この《色》を出すために、だれの材を使うか。下職人さんの人事采配からものづくりが始まっています」。
「これでいい」のか、「これがいい」のか。
大正・昭和にかけ京都・五条坂に窯を築き、柳宗悦や濱田庄司らとともに「民藝運動」の中心人物として知られる陶芸家・河井寛次郎。無名の陶工による簡素で美しい陶器に感銘を受け、キャリア中期からその作品に銘を入れることをやめた“名陶工”である。第二次大戦中、窯に火を入れることを禁止された河井寛次郎は、作陶が中断された間、数多くの言葉を書き残した。そのひとつに「もの買つて來る、自分買つて來る」という一文がある。
「もの買つて來る、自分買つて來る」
《もしか自分以外のものを買ってきた人があったなら、自分はその人を見たい。人は言うであろう。『嫌だったけれど仕方がなかったから買ったのだ。こんなものは自分のものでも何でもないのだ』と。しかしその人は仕方がないという自分以外の何を買ってきたのであろう》
モノを買うときに思う、「これでいい」、または「これがいい」。たった一文字の違いが、美意識の大きな差を表現する。「あなた」に置き換えてみよう。「あなたでいい」のか「あなたがいい」のか。「プチプラでお洒落に見せるかしこい自分」を披露して、承認欲求を満たすのもいい。それも「自分」である。その「自分」はスワイプして消えていくが、モノは残る。変わらない機能性と美しさ、時代に合わせて変わるつくり手。今後数十年のうちに緑茶を飲む習慣も廃れるかもしれない。だが「長澤製作所」の急須は、「これがいい」と選ばれ続け、使い続けられるだろう。