「価値とはなにか?」を問いかけるレザーバッグ
「自分で終わらせたい」一時代を築いた人間の「まっすぐな望み」
物語をつれてくる人がいる。その口から放たれる言葉に“名言”を期待させ、一挙手一投足に “ワンシーン”を想像させる。“まるで映画”のような人生の変遷に、人々は根拠のない夢や理想をのせる。だが、当人はあくまでも自分の人生を生きている。
では、ここから「物語をつれてくる人」の物語をはじめよう。レザーバッグブランド「HMAEN(アエナ)」の大友成氏だ。 “たまたま”業界に入ったという32歳が、わずか10年もしない間に2つのブランドを成功に導き、「メンズバッグのレジェンド」「知る人ぞ知る」と形容されるまでになった。メンズファッションのバッグというカテゴリにおいて、一個人の名がここまで知れ渡ることはなかっただろう。2010年、当時成功を収めていたブランドのデザイナーとして、大友氏は某ファッション誌のインタビューを受けていた。記事の中で大友氏は「目指すものづくりは?」の問いかけに、「自分で終わらせたい」と答えていた。
“物語以前”に身につけた「ものづくり」の定義。
「メイド・イン・ジャパン」のメンズバッグ、という新しい潮流を生んだブランド「HERGOPOCH(エルゴポック)」、そして「aniary(アニアリ)」を立ち上げ、いずれも成功に導いてきた大友氏。「鞄屋になりたかったわけではない」というその経歴は、やはりユニークと言わざるをえない。漁師・トラック運転手・鉄工所作業員・化粧品会社の企画営業などさまざまな職歴を経て、バッグメーカーにたどり着く。物語の始まりだ。
が、「前職の化粧品会社で上司だった人から、モノの売り方・考え方・コミュニケーションの取り方を学んだ」という大友氏。「モノをつくり、売る」とは。大友氏の「定義」は、すでに物語以前に確立していたのかもしれない。
日本の「ものづくり」の虚と実と、現在地。
「HERGOPOCH(エルゴポック)」在籍時、「メイド・イン・ジャパン」というコンセプトを開発した大友氏は、日本でのバッグづくりの伝統や技術が失われつつあることを知った。日本の高度経済成長期、「つくれば売れる」人口ボーナスによるメリットを享受していたレザーの「ものづくり」は、利益を追求するために生産拠点を海外に移したことで、国内での仕事は減り、さらに高齢化が進んだ結果、次の担い手を育成することもできず、空洞化し困窮していた。「日本人がつくった日本の鞄」が、絶滅寸前だったのだ。
「クオリティ・人材・クリエイティブ」を見過ごしてきた日本のバッグ業界は、「利益追求」の大義名分のもと、大友氏を飲み込み始めた。新ブランド立ち上げのオファーを受け、移籍したブランド「Aniary(アニアリ)」は、理想と現実(An Ideal and reality)という言葉から生み出した造語。「Aniary(アニアリ)」から放たれた「ありそうでない」バッグは、世に受け入れられたが、売れたデザインは瞬く間にコピーされ、市場で飽和した。「売れる」という正義は、業界全体を同じ方向に向かわせる。これが、バッグ業界の「現実」だった。
だれのための・何のための「ものづくり」か。商売の誠意とは。思い悩んだ大友氏は、業界から立ち去った。
「食べていくための鞄屋」が、手を動かし始めた。
「Aniary(アニアリ)」を去ってから1年間、バッグ業界から距離を置いていた大友氏は “鞄屋稼業”を復活させる。「鞄屋になりたかったわけではない」大友氏が、「食べていくための鞄屋」になった。「デザイン画は描けたが、できあがったサンプルはどこか思い通りではなく、自分がほしいそれではなかった」。繊細なニュアンスが伝わらない。だったらと、自身の手で鞄づくりを始めた。大友氏は「自分で終わらせる」という小さなエゴを貫いた。
すべて手縫いの鞄を揃え、ひっそりと開いた初めての展示会には、日本のファッション・トレンドをリードするセレクトショップのバイヤーたちが訪れた。以降、自然派生しながら顧客を増やし続けてきた「HMAEN(アエナ)」。大友氏を含むたった3人の職人がつくるレザーバッグたちは、ハイエンドメゾンのバッグも取り扱う有名セレクトショップに堂々と並んでいる。
なぜ、大友氏のつくるバッグが、目の肥えた人々の所有欲を刺激し、高い評価を得ているのだろうか?
なぜそのバッグは、こんなにも魅力的なのか。
ブランド名の先頭に「HM」=「ハンドメイドの略」を掲げ、メイド・バイ・ハンドにこだわる鞄づくりは、オリジナルレザーの開発から、デザイン、縫製まで、大友氏が行っている。自ら職人となり手を動かして初めて気づくことの多さと同時に、当初は「心が折れるのを忘れるくらい失敗の連続」だったという。数年を経た今も、つくることで素材への理解をさらに深め、また縫製での気づきをパターンに落とし込むことで、「ありそうでない」姿かたちをつくり出している。ブランドの歴史を凝縮したショルダーバッグ「Zeppelin S」は、曲線と曲線をひねるように立体的に縫い合わせ、独自のフォルムを立ち上がらせた。仕立てとデザインの両輪を、試行錯誤しながら、時に不器用に、時に「脳に汗をかいて」進める、「HMAEN(アエナ)」の鞄づくりだ。
レザーへのこだわりは、ブランドの「売り」であり根幹を成す大きな要素の一つだ。傷が少ないAランクの牛革を採用し、信頼を寄せるタンナーが加工を施したオリジナルレザー。「HMAEN(アエナ)」の真骨頂である“レザーならでは”のエレガントなフォルムを成立させるハリとボリュームを持ちながら、丈夫で驚くほど軽いのが特徴だ。シボに浮かぶつやめきもフォルムの美しさを強調し、人々の所有欲をさらにかき立てる。
では、もう一度問いたい。「HMAEN(アエナ)」のバッグは、高品質の素材とハンドメイドに、その価値があるのだろうか?
「価値」を決めるのは、誰なのか、何なのか。
19世紀、高級馬具工房からスタートしたフランスのブランドがある。最高の素材を最高の職人が最高の技術で仕立てる最高のレザープロダクトは、すべてにおいて他の追随を許さない世界最高峰のクオリティを誇っている。大友氏は「勉強のため」とその財布を買い、解体し、自身の手で再構築した。狂気にも近い技術への探究心と、ものづくりへの敬意。
他者から「真摯」「誠意」などの言葉が吐き出された瞬間、その真意は即死する。こう言い換えてみよう。「HMAEN(アエナ)」の魅力とは、素材のクオリティ、ハンドメイドだからこそ成立するつくり、機能をともなったデザインワーク、妥協しない姿かたち、適正な価格に至るまで、考えられる限り・可能な限りのすべてを注ぎこんだ、大友氏の「価値」のプレゼンテーション。「価値は、他者が決めるもの」という大友氏のプロフェッショナルとしての矜持と覚悟、「バッグはものを運ぶ道具である」の軸を持ち、ファッションとは一線を画すための知恵と技術だ。
モノ余り時代の「見えざる手」。
「見えざる手」の比喩で有名な経済学者アダム・スミスは、富の概念においてコペルニクス的転回を発明した。本当の富とは、貨幣ではなく「労働生産物こそが富である」と。お金は、それ自体で人間の必要も欲望も満たさない。食べ物や衣服などを買ってはじめてそれらが満たされる。大友氏の「労働生産物」である「HMAEN(アエナ)」のバッグは、さまざまな価値をつめ込んだ、バランスのいい“贅沢”といえないだろうか。
18世紀、産業革命まっただ中のイギリスは、政治の民主化、近代ヨーロッパの科学技術の革新と普及、経済発展など、大きな社会的変化を遂げていた。アダム・スミスの「見えざる手」とは、利己心に基づいた行動が、結果的にまるで「見えざる手」に導かれるように社会全体の経済発展に結びつくことを指す。利益追求の自由放任主義という曲解とは異なり、アダム・スミスの自由主義は、「フェアな市場」と「内なる良心」を前提にした、社会を動かす力である。“グローバリズム” “新自由主義”と呼ばれる苛烈な競争社会に生きる私たちには、いささか“牧歌的”にも映るアダム・スミスの主張は、ものづくりにおいても換言できそうだ。
消費者が「いいもの」を求めれば、供給側がそのニーズに応えようとするため、「見えざる手」に導かれてものづくり全体が豊かになる。
モノが売れない現代、「見えざる手」はその数を激増させ、利益追求の大義名分のもと、うごめきながら消費者を捕え購買を促そうと躍起になっている。「知る人ぞ知る」著名デザイナーの手は、今や職人の手となり、武骨な姿に変わりながら、本物志向の顧客から“有名なデザイナーがつくったから買う”客まで、さまざまな「手」を優しく握り返すだろう。